クイーンズでFUBUを共同創業し、ヒップホップ発のストリートウェアを大きな市場へ広げた起業家
母の家を工場にしたFUBU
#1約30万ドルの注文が入った。
#2小さな服の会社なら、まず喜びそうな話だよね。
#3でもFUBUは違った。
#4その服を作る金がなかった。
#5デイモンド・ジョンたちは、ラスベガスのファッション見本市MAGICで正式なブースを借りる余裕さえなく、ホテルの一室を使ってバイヤーに服を見せていた。
#6そこで思いがけず大きな注文が入った。
#7欲しい人がいることは分かった。
#8次の問題は、その注文を本当に商品にできるかだった。
#9ジョンは銀行を回った。断られたら次へ行き、そこでも断られたらまた別の銀行へ行った。
#10本人は後に、数十の銀行から融資を断られたと振り返っている。
#11銀行から見れば、理由はあった。
#12大きな工場はない。 長い実績もない。 キャッシュフローも安定していない。
#13注文書はある。
#14でも、それを服に変えるお金がない。
#15最後に大きなリスクを引き受けたのは、ジョンの母マーゴだった。
#16マーゴはFUBUが生まれる前から、この話の中にいた。
#17ジョンに裁縫を教えたのが彼女だったからだ。
#18ジョンはファッション学校で服作りを学んだわけじゃない。家で母が縫い物をするのを見ながら、自分もミシンを使えるようになった。
#19最初に作ったものも小さかった。
#20当時20ドルほどで売られていたウールの帽子を、自分で作ればもっと安く売れるんじゃないかと考えた。
#21友人と作って、街へ持っていった。
#22ある日、約800ドル分が売れた。
#23そこで一つ分かった。
#24買う人はいる。
#25ただ、それを安定して続けられる会社はまだなかった。
#26資金が尽きると、ジョンは事業を止めた。1989年から1992年までに3度閉じたと、後に話している。
#27ところが、止めるたびに以前の客が戻ってきた。
#28また買えないのか、と聞かれる。
#29商売は止まっても、欲しい人まで消えるわけじゃなかった。
#30だからジョンも、完全にはやめられなかった。
#31生活するには別の収入が必要だった。
#32ジョンはレッド・ロブスターでウェイターとして働いた。仕事が終わればFUBUに戻る。
#33週末には仲間と15人乗りのバンに服を積み、イベントへ出かけた。
#34商品を運ぶ車だったし、ときには寝る場所でもあった。
#35そこへ3人の仲間が加わる。
#36J・アレクサンダー・マーティン。 キース・ペリン。 カールトン・ブラウン。
#374人はクイーンズにつながりがあり、自分たちが着たい服を作っていた。
#38ブランド名はFUBU。
#39For Us, By Us。
#40自分たちをよく知らない会社が、外から「こんな服が好きだろう」と考えて作ったものではない。
#41作る側が、そのまま客の側にもいた。
#42その強みが効いてくるのは、広告の話になってからだった。
#43FUBUには大きな広告費がなかったからだ。
#44雑誌広告もテレビCMも高い。
#45そこでジョンたちは、客がすでに見ている場所へ行った。
#46ヒップホップのミュージックビデオ撮影現場だった。
#47服を持っていく。
#48ラッパーに見せる。
#49着てもらえないか頼む。
#50断られたら、また行く。
#51Brand Nubian、Ol' Dirty Bastard、Busta Rhymesなど、いろいろなアーティストがFUBUを着るようになった。
#52ヒップホップらしい広告を別に作ったわけじゃない。
#53実際のヒップホップの中に服を持ち込んだ。
#54そのやり方をよく表しているのが、同じホリス出身のLL・クール・Jとの関係だった。
#55友人なら簡単に着てくれそうに見える。
#56実際はそうでもなかった。
#57服を持っていく。
#58気に入ってもらえない。
#59また持っていく。
#60それでもだめ。
#61デザインを変えて、また行く。
#62当時の証言では、LLがFUBUを着るまでにおよそ11回の試みがあったという。
#63やがて彼はFUBUを着てステージに立った。
#64そして公演後、今度はLLのほうから別の商品はないのかと聞いてきた。
#65ただ一度、友人の頼みで着てもらった服ではなくなった。
#66本人が次を見たがるブランドになり始めた。
#67アーティストが着てくれれば、FUBUの名前は広がる。
#68でも、大きな注文を実際に作るにはやっぱりお金がいる。
#69銀行が動かなかったため、マーゴは自分の家を担保にして約10万ドルを用意した。
#70しかも、その家は担保だけでは終わらなかった。
#71家具が出ていく。 ミシンが入る。 生地が積まれる。 ジョンと仲間たちが働き始める。
#72家そのものがFUBUの作業場になった。
#73これでようやく作れる。
#74そう見えた。
#75ところが、数か月後にはまた現金が足りなくなった。
#76FUBUは生地代も、生産費も、人件費も、発送費も先に払う。
#77一方、小売店から代金が入るのは後だ。
#7830日後。 60日後。 場合によっては90日後。
#79売上があっても、口座に現金があるとは限らない。
#80ジョンは後に、一時は手元資金が約500ドルまで減り、住宅ローンも危うくなったと振り返っている。
#81家まで担保にしたのに、またお金がない。
#82今度は「売れない」ことが問題じゃなかった。
#83売れているのに、その時間差を耐えられないことが問題だった。
#84そこでマーゴが、また別の案を出した。
#85新聞に広告を出す。
#86注文はある。 資金が必要だ。
#87その情報を外へ出した。
#88電話が来た。
#89その一つがサムスンの繊維部門につながった。
#90この頃のFUBUに必要だったのは、お金だけじゃない。
#91大量に作る仕組み。 大きな注文を処理する仕組み。 資金管理。 事務。 流通。
#92家で4人が全部やるには、もう事業が大きくなりすぎていた。
#93サムスンとの提携は、FUBUがより大きな生産と流通へ進む助けになった。
#94銀行には断られた。
#95母は家を担保にした。
#96それでも現金は足りなくなった。
#97そして、新聞の小さな広告が別の道を開いた。
#98ここからFUBUの悩みは少しずつ変わっていく。
#99「作れるか」ではなく、「どこまで大きくできるか」になっていった。
#100最初から大手百貨店に入ったわけじゃない。
#101地元の小さな店が先だった。
#102その店の人たちは、自分の客が何を欲しがっているか知っていた。
#103売れる。
#104すると、大きな小売店も動く。
#105やがてFUBUはMacy'sのような大手百貨店にも入った。
#106少し前まで、ジョンたちは自分で服を運んで売っていた。
#107それが百貨店に並ぶようになった。
#108ニューヨーク34丁目のMacy's旗艦店では、FUBUの創業者たち自身がショーウィンドウに登場することもあった。
#109バンで商品を運んでいた4人。
#110母の家でミシンを回していた4人。
#111その4人が、今度はニューヨークの大きな百貨店のガラスの向こう側にいる。
#112そしてLL・クール・Jは、もっと意外な場所にFUBUを持ち込んだ。
#113LLがGAPの広告に出た。
#114広告費を払ったのはGAPだ。
#115ところがLLはFUBUの帽子をかぶり、ラップにはFUBUを思わせる「For Us, By Us」という言葉まで入れた。
#116FUBUはそのCMを買っていない。
#117なのに、大企業の広告の中にFUBUがいる。
#118広告を見た人の中には、FUBUをGAPで買えると思って店を訪れた人までいたという。
#119初期のジョンは、ラッパー一人に服を着てもらうために撮影現場へ通っていた。
#120数年後には、大企業の広告が結果的にFUBUを目立たせていた。
#121ただ、このCM一つでFUBUが大きくなったわけではない。
#122ジョン自身も後に、一つの大当たりではなく、何百もの出来事が積み重なった結果だったと話している。
#123ミュージックビデオもあった。
#124小さな店もあった。
#125LLもいた。
#126母の家もあった。
#127新聞広告も、サムスンもあった。
#128それらが重なったとき、FUBUは一気に大きくなっていった。
#1291990年代後半、FUBUは数千の店で売られ、海外へ広がり、売上は数億ドル規模に達した。
#130NBAとのライセンス事業も始まり、商品も増えていく。
#131もう「服を作れなくて困る会社」ではなかった。
#132すると、問題が反対側からやってきた。
#133作りすぎた。
#134このまま成長すると見込んで、将来の注文分まで先に在庫を作る。
#135ジョンは一時、予想販売量の2倍を超える商品を作ったと振り返っている。
#136でも、注文は予想どおりには来なかった。
#137服が余る。
#138売るには値下げする。
#139商品がクリアランスへ流れる。
#140FUBUらしさの一つだった希少性が薄れていく。
#141初期には、会社が小さすぎて商品がなかなか手に入らなかった。
#142今度は、大きくなりすぎてどこにでもあるように見え始めた。
#143偽物も増えた。
#144長い間、FUBUは「どうすれば知ってもらえるか」を考えてきた。
#145今度は「知られた名前の価値をどう守るか」を考えなければならなかった。
#146最初は服が足りなかった。
#147後には服が多すぎた。
#1482000年代に入ると、アメリカでFUBUを見る機会はかなり減った。
#149でも、ブランドそのものが消えたわけではない。
#150アメリカでの展開を縮小しながら、国際市場とライセンス事業へ重心を移した。
#151日本、韓国、中国、ヨーロッパなどでは地域のパートナーを通じてFUBUが展開された。
#152やり方そのものが変わった。
#153最初は、4人で何でも自分たちでやることが生き残る方法だった。
#154ブランドが世界へ広がった後は、すべてを自分たちだけでやらないことが必要になった。
#155FUBUは別の挑戦もしている。
#1562001年にはFUBU Recordsを立ち上げた。
#157LL・クール・J、Nas、Ludacrisらも関わった。
#158服をミュージックビデオに出すことで成長したなら、今度は音楽そのものを作ればいい。
#159発想は分かりやすかった。
#160でも、長くは続かなかった。
#161ヒップホップ文化を理解することと、レコード会社を運営することは別の仕事だった。
#162この失敗を見ると、FUBUが何を得意としていたのかも見えやすい。
#163「ヒップホップを知っていた」だけではない。
#164自分たちがよく知る人に、 自分たちも欲しいと思う服を作り、 その人たちがいる場所へ持っていく。
#165そこが強かった。
#166FUBUがアメリカで最も目立っていた時代は過ぎた。
#167それでも国際ライセンスは続き、後には若い世代との接点を作ろうとする動きも出てきた。
#1681990年代にFUBUを着ていた世代は年を重ねた。
#169でも、ヒップホップとストリートウェアの文化は次の世代へ渡っていった。
#170だから、昔の名前をもう一度見ると少し違って見える。
#171For Us, By Us。
#172最初の「Us」は、クイーンズで一緒に服を作っていた4人と、その周りの人たちだった。
#173やがて服はアメリカ中へ広がり、国境も越えた。
#174でも、出発点はずっと小さい。
#175母が息子に裁縫を教えた。
#176息子が友人たちと服を作った。
#177工場がないから家を使った。
#178広告費がないからアーティストのところへ行った。
#179銀行が貸さないから、母が家を担保にした。
#180そして数年後、その4人はMacy'sのショーウィンドウに立っていた。
#181さらに大きくなった後には、今度は作りすぎた服に苦しむことになる。
#182だからFUBUの始まりを思い出すなら、最大売上の数字より、母の家に並んだミシンのほうが分かりやすい。
#183そのとき、あの服がどこまで行くのかは誰にも分からなかった。
#184名前だけは、もう決まっていた。
#185For Us, By Us。