史上最年少のヘビー級世界王者となり、その後ポップカルチャーの世界でも生き残ったアメリカのボクサー
世界で最も恐れられたマイク・タイソンは、なぜ自分自身まで壊していったのか
#12005年6月。38歳のマイク・タイソンは、ケビン・マクブライドとの試合で6ラウンドを終えると、自分のコーナーの椅子に座った。
#2そして立ち上がらなかった。
#3かつてタイソンの試合で気にされていたのは、相手が何ラウンド耐えられるかだった。
#4今度はタイソン自身が続きを拒んだ。
#5試合後、彼はもう戦う気持ちが自分の中にないと認めた。もう世界王者を目指しているわけでもない。生活費を払うために戦っているようなものだ、とも語った。
#6奇妙な光景だった。
#720歳で世界ヘビー級王者になり、莫大な金を稼ぎ、その名前だけで巨大な興行を成立させた男が、今では金のために殴られている。
#8世界で最も恐れられたボクサーは、どうして自分の仕事そのものに耐えられなくなったのか。
#9その答えを探すには、ニューヨークの少年施設まで戻る必要がある。
#10タイソンはBrooklynで生まれ、やがてBrownsvilleで育った。
#11貧困があり、犯罪があり、暴力が日常のすぐそばにあった。
#12子どものころのタイソンは、高い声や舌足らずな話し方をからかわれた。やがて彼は殴り返すようになり、その暴力は窃盗や強盗とも結びついていった。
#13本人は後年、13歳までに38回逮捕されたと書いている。この正確な数字はタイソン自身の回想に基づくものだけれど、少年司法制度に何度も関わっていたこと自体は確かだった。
#14やがて彼はTryon School for Boysへ送られた。
#15そこでタイソンは、顔にあざを作って戻ってくる少年たちに気づいた。
#16不思議なのは、彼らが楽しそうだったことだ。
#17何をしているのか尋ねると、ボビー・スチュワートというカウンセラーからボクシングを習っているという。
#18タイソンもやりたくなった。
#19つまり、Stewartが少年院の中で偶然「未来の世界王者」を発見したわけではない。
#20タイソンのほうからStewartを探した。
#21ところがStewartは、すぐには教えてくれなかった。
#22態度を改善すること。
#23学校の成績も上げること。
#24それが条件だった。
#25タイソンは従った。
#26欲しいものを手に入れるために、自分の行動をコントロールする。その経験をボクシングが初めて彼に与えた。
#27もっとも、最初から立派な動機だったわけではない。
#28タイソンは後に、Stewartの強烈なボディーブローを見て、こんなパンチが使えれば人を襲って金を奪うときに便利だと思った、と振り返っている。
#29ボクシングが彼の攻撃性を消したわけではなかった。
#30その攻撃性が、別の方向へ動き始めたんだ。
#31そしてStewartは、目の前の少年が普通ではないことに気づいていく。
#32Stewart自身も元ボクサーで、タイソンとスパーリングをした。
#33しかし少年の力は急速に強くなった。
#34Stewartが傷だらけになって家へ帰ることもあった。
#35そして彼は、タイソンの人生を変える決断をする。
#36自分だけで育て続けるのをやめたんだ。
#37タイソンは嫌がった。
#38Stewartのところに残りたかった。
#39でもStewartには、この少年をもっと先まで連れていける人間が必要だと分かっていた。このまま正しい道を見つけられなければ、また刑務所へ行くか、もっと悪い結末になるかもしれない。
#40そこで紹介したのが、カス・ダマトだった。
#41すでにフロイド・パターソンを世界ヘビー級王者へ育てていた伝説的なtrainerだ。
#42タイソンがD'Amatoの世界に初めて足を踏み入れた場所は、豪華なトレーニング施設ではなかった。
#43Catskillの警察署の上にあった古びたgymだった。
#44D'Amatoは少年タイソンの動きを見た。
#45そして早い段階から、とんでもないことを言い始めた。
#46言うことを聞いて努力すれば、お前は世界ヘビー級王者になれる。
#47タイソンには信じられなかった。
#48まだ何者でもない問題児に、老人が世界王者になる未来を当然のように話している。
#49でもD'Amatoにとっては、完全な夢物語でもなかった。
#50かつて彼は、Brooklynの厳しい環境で育ちreform schoolを経験したFloyd Pattersonを、当時史上最年少の世界ヘビー級王者にしていた。
#51D'Amatoは、自分がもう一度それをできる少年を見つけたと考えた。
#52Catskillには、タイソンが知らないものがたくさんあった。
#53ボクシング以外にも。
#54彼は後年、そこでバラを見て驚き、Tryonへ持って帰ってもいいか尋ねたことを覚えていた。
#55D'Amatoは持っていかせた。
#56ボクシングの百科事典も与えた。
#57やがてタイソンはCatskillへ通うだけではなく、そこで暮らすようになる。
#58D'Amatoが暮らしていたCamille Ewaldの大きな家だった。若いボクサーたちを受け入れていた家で、タイソンは後にCamilleを母親のように慕った。
#59だから「Cusがタイソンにボクシングを教えた」という一文だけでは足りない。
#60タイソンが手に入れたのはtrainer一人ではなかった。
#61練習する場所。
#62眠る場所。
#63食事。
#64一日の生活を管理する大人。
#65自分には別の未来があると信じる人たち。
#66荒れた少年の巨大な才能を囲む、一つの生活システムができた。
#67そしてD'Amatoが特に気にしていたのは、タイソンのパンチ力だけではなかった。
#68彼の頭だった。
#69D'Amatoは「王者は恐怖を感じない」とは教えなかった。
#70怖いのは当たり前だと考えていた。
#71大切なのは、その恐怖をどう使うかだった。
#72自分がchampionになる姿を想像させる。
#73affirmationを繰り返させる。
#74恐怖をコントロールし、逆に相手へ恐怖を植えつける。
#75後のタイソンを見ると、その教育がどんな形になったのか分かる。
#76試合前、相手の目をじっと見る。
#77黒いtrunks。
#78靴下を履かずにboxing shoesを履く。
#79ゴングが鳴ると低く構え、一気に距離を消す。
#80対戦相手はパンチを受ける前から、「Mike Tyson」という存在そのものと戦わなければならなかった。
#81ただし、タイソンはD'Amatoを完全な聖人として記憶しているわけでもない。
#82後年になると、勝利や征服に執着する考え方、championという特別な人間になるという意識について、もっと複雑な振り返りもするようになった。
#83特別な人間なら多くのことが許される。
#84そんな危険な感覚につながる部分もあった、と。
#85D'Amatoはリングの中で恐怖と攻撃性を扱う方法を教えた。
#86でも、その仕組みが大人になったタイソンの人生すべてを制御できるわけではなかった。
#8710代のうちに母Lornaも亡くなり、D'Amatoはタイソンにとってさらに大きな保護者の存在になった。
#88そして1985年。
#89D'Amatoも亡くなった。
#90ここからタイソンが壊れ始めた。
#91そう書きたくなる。
#92でも実際には、その直後にタイソンはもっと強くなった。
#93D'Amatoがいなくなっても、タイソンの周囲が一夜で空っぽになったわけではない。
#94ケビン・ルーニーがtrainerとして残った。
#95Jim JacobsとBill Caytonがcareerを管理した。
#96Camille Ewaldも彼の人生に残っていた。
#97Cusはいない。
#98でもCusが作った構造はまだ残っていた。
#991986年11月22日。
#100タイソンはTrevor BerbickとWBC heavyweight titleを争った。
#101第2ラウンド。
#102タイソンの一撃を受けたBerbickは立とうとする。
#103よろめく。
#104もう一度立とうとする。
#105また倒れる。
#106試合終了。
#107タイソンは20歳だった。
#108史上最年少の世界ヘビー級王者。
#109数年前、Catskillの警察署の上でD'Amatoが少年に語った未来が、本当に現実になった。
#110ただ一つ違うことがあった。
#111最初にその未来を信じた本人は、もうそこにいなかった。
#112タイソンはさらに勝ち続けた。
#113beltを統一し、次々と相手を倒した。
#1141988年のMichael Spinks戦は、わずか91秒。
#115タイソンの場合、試合が短いことは商品の欠点ではなくなっていた。
#116短いことそのものが商品だった。
#117観客が知りたいのは、素晴らしい12ラウンドになるかどうかではない。
#118「今度の相手はMike Tysonに何分耐えられる?」
#119その答えに人々は金を払った。
#120そして皮肉なことに、タイソンが最も無敵に見えたその時期に、彼を支えていた世界は少しずつ形を失っていた。
#1211988年、Jim Jacobsが亡くなった。
#122D'Amato亡き後、タイソンのcareerと日常を支えていた重要人物だった。
#123Bill Caytonとはmanagementや金をめぐって対立が深まった。
#124Robin Givensとの結婚生活も公の場で崩れていった。Givensはタイソンとの生活を恐ろしく不安定なものとして語り、暴力についても主張した。二人の関係そのものが巨大なmedia spectacleになった。
#125タイソンはMitch Greenと路上で殴り合い、右手を負傷した。
#126自動車事故ではconcussionを負い、記憶にも問題が出た。
#127Kevin Rooneyとの関係もついに壊れた。
#128ドン・キングの影響力は大きくなっていった。
#129古いシステムの部品が、一つずつ外れていく。
#130ところがリングでは勝つ。
#131Frank BrunoをKO。
#132Carl Williamsは93秒。
#133これが厄介だった。
#134以前ほど真剣に準備しなくても勝てる。
#135私生活が混乱しても勝てる。
#136周囲の人間が入れ替わっても勝てる。
#137だったら、何を直す必要がある?
#138問題は積み上がっているのに、試合結果だけは「問題ない」と答え続けていた。
#1391990年のTokyoまでは。
#140バスター・ダグラス戦の前から、警告は出ていた。
#141sparring partnerのGreg Pageがタイソンを倒した。
#142trainingでも動きが鈍く、集中していないという話が出ていた。
#143タイソン自身も後になって、この試合を真剣に考えていなかったと認めている。
#144完璧な状態でなくても、それまで相手を倒せていた。
#145今回も同じだと思った。
#146oddsmakerたちも似たような判断をしていた。
#147タイソンは圧倒的favorite。
#148場所によってはDouglasの勝利に42対1のoddsがついた。
#149でもDouglasは、壊れかけたTysonから偶然勝利を拾っただけの男ではない。
#150準備していた。
#151試合の数週間前に母Lula Pearlを亡くしていた。深い悲しみの中にいたけれど、それだけで勝ったわけではない。
#152training campそのものが充実していた。
#153そして作戦があった。
#154長いjabで距離を作る。
#155タイソンが飛び込んできたらcombinationを返す。
#156近距離では、タイソンが好きな形を作らせない。
#157そして何より、最初から負ける人間のように振る舞わない。
#1588ラウンド。
#159タイソンのuppercutがDouglasを倒した。
#160いつもの結末に見えた。
#161でもDouglasは立った。
#16210ラウンド。
#163今度はタイソンが倒れた。
#164床の上でmouthpieceを探し、それを口に戻そうとしながら立ち上がろうとした。
#165間に合わなかった。
#166試合は終わった。
#167無敗のMike Tysonという神話も終わった。
#168ただし、Mike Tysonのcareerは終わらなかった。
#169Douglas戦の後、タイソンはまた勝った。
#170Henry Tillman。
#171Alex Stewart。
#172そしてRazor Ruddockを二度。
#173依然として世界トップクラスのheavyweightだった。
#174だからTokyoは「王者が一度負けて消えた日」ではない。
#175タイソンは何度も落ちて、そのたびにまた上がった。
#176次の転落はリングの外で起きた。
#1771991年、Indianapolisで18歳のDesiree Washingtonが、タイソンに強姦されたと訴えた。
#178タイソンは性行為は合意の上だったと主張した。
#179陪審はその主張を認めなかった。
#1801992年、タイソンは強姦などの罪で有罪判決を受け、刑務所に入った。
#181ここを単なる「スキャンダル」や「疑惑」とぼかすことはできない。
#182裁判があり、有罪判決があり、服役した。
#183boxing careerも数年間止まった。
#184ところが「Mike Tyson」という商品の価値は、そこで消えなかった。
#1851995年。
#186出所したタイソンの復帰戦の相手はPeter McNeeleyだった。
#187試合は89秒で終わった。
#188McNeeley陣営がringへ入り、失格になったからだ。
#189でも本当に驚くべき数字は試合時間ではなかった。
#190Tysonの復帰そのものが巨大businessになったことだった。
#191数年間刑務所にいたにもかかわらず、人々はまだ見たがった。
#192やがてFrank Brunoを再び倒し、WBC heavyweight titleまで取り戻した。
#193また復活したように見えた。
#194次の相手がイベンダー・ホリフィールドだった。
#195当時、Holyfieldは全盛期を過ぎたと見る人も多かった。
#196ところがHolyfieldには、Tysonが相手から引き出してきた重要なものがなかった。
#197恐怖だ。
#198Holyfieldは下がらない。
#199近距離でぶつかる。
#200押し返す。
#201獲物のようには振る舞わない。
#20211ラウンド、refereeが試合を止めた。
#203HolyfieldのTKO勝ち。
#204Tysonはまた負けた。
#205そしてrematchが組まれる。
#206その試合は、勝敗とは別の理由でboxing史に残ることになる。
#2071997年6月28日。
#208Tyson対Holyfield、第2戦。
#209TysonはHolyfieldが意図的にheadbuttしていると感じ、怒りを募らせていた。
#210実際に頭同士がぶつかる場面はあった。
#211ただしrefereeのMills Laneは、その夜のHolyfieldのheadbuttを故意とは判断していない。
#2123ラウンド。
#213二人が接近する。
#214TysonがHolyfieldの右耳を噛んだ。
#215Holyfieldが痛みで飛び上がる。
#216試合が止まる。
#217Tysonは減点された。
#218そして試合は再開された。
#219この順序は重要だ。
#220もしそこで終わっていたら、一瞬の衝動だったという説明もまだできたかもしれない。
#221でもTysonはもう一度噛んだ。
#222今度は左耳だった。
#223LaneはTysonを失格にした。
#224ring周辺は混乱した。
#225Tysonのboxing licenseは取り消され、巨額の罰金も科された。
#226それまで彼を世界的商品にしてきたのは、ルールの中での暴力だった。
#227その暴力が、今度はルールの外へ飛び出した。
#228それでも人々はMike Tysonを見るのをやめなかった。
#229professional boxingができない時期、TysonはプロレスのWrestleMania XIVに登場した。
#230Stone Cold Steve AustinとShawn Michaelsをめぐるstorylineに加わり、短期間の出演で数百万ドルを得た。
#231これは小さく見えて重要な変化だった。
#232Mike Tysonは、Mike Tysonがboxingをしていなくても商品になった。
#233その後、彼はリングにも戻った。
#234巨額のpurseを稼ぎ続けた。
#235同時に、巨額の金も失い続けた。
#236試合で発表されるpurseの数字が、そのままTysonの資産になったわけではない。promoter、manager、trainer、税金、さまざまな費用が引かれる。
#237そしてTyson自身も豪邸、車、宝石、動物などに莫大な金を使った。
#238後にTysonはDon Kingが自分の金を不当に奪ったと主張し、1億ドルを求めて訴えた。
#239最終的には1,400万ドルで和解した。
#240ただし、和解したこととTyson側の主張がすべて裁判で事実認定されたことは同じではない。
#2412003年。
#242Tysonは破産した。
#243負債は数千万ドル規模。
#244Kingとの和解金も、自由に使える新しい財産というより、多くが債権者への支払いに回る金だった。
#245そして破産処理の計画には、ある意味で最もTysonらしい方法が組み込まれた。
#246もっと戦う。
#247もっと稼ぐ。
#248借金を返す。
#249だから2005年、Kevin McBride戦のコーナーに座っていたTysonは、単なる年老いたfomer championではなかった。
#250金のために、自分の身体をもう一度売っていた。
#251そして6ラウンドが終わると、ついに立ち上がらなかった。
#252少年時代のTysonを貧困や犯罪から連れ出したのはboxingだった。
#253ところが中年になったTysonは、自分が作った人生の代金を払うため、そのboxingから逃げられなくなっていた。
#254でもfighterとして終わった後、意外なことが起きる。
#255Mike Tysonそのものは終わらなかった。
#256引退後、Tysonはexhibition tourを試した。
#257うまく続かなかった。
#258でも別の市場が開いた。
#259Mike Tyson本人として映画やメディアに登場するようになった。
#260「Rocky Balboa」にcameo出演。
#261James Tobackのdocumentary「Tyson」では、自分の人生を自分の声で語った。
#262そして2009年の「The Hangover」。
#263ホテルの部屋に現れたTysonは、相手を倒すために来たheavyweight championではない。
#264Phil Collinsの曲に合わせて歌い、自分の虎を探し、観客がすでに知っている「怖いMike Tyson」というイメージそのものを笑いに変える。
#265恐怖のイメージは消えていなかった。
#266素材になっていた。
#267そのころ、実生活では笑えない出来事も起きた。
#2682009年5月、4歳の娘Exodusがtreadmillのコードに絡まる事故で亡くなった。
#269後年、Tysonは娘について話すだけで涙を見せた。
#270この出来事の後、自分の生き方の嫌いな部分を変えようと思ったとも語っている。
#271でも、ここを美しい「改心」の瞬間にはできない。
#272Tysonのpublic reinventionはすでに始まっていたし、本人のrecoveryも一直線ではなかったからだ。
#2732012年。
#274Las VegasのstageにTysonが一人で立った。
#275「Mike Tyson: Undisputed Truth」。
#276やがてSpike Leeの演出でBroadwayにも進出した。
#277そこでTysonが売っていたものは何だったのか。
#278自分の人生だった。
#279Brownsville。
#280Cus D'Amato。
#281championship。
#282結婚。
#283刑務所。
#284金。
#285drug。
#286破産。
#287それまで新聞やテレビは、Mike Tysonに起きたことをstoryにしてきた。
#288今度はMike Tyson自身が、Mike Tysonをstoryにした。
#2892013年にはLarry Slomanとの回想録「Undisputed Truth」も出した。
#290その同じ年、Tysonはせっかく出来上がりつつあった「立ち直った元champion」というイメージを、自分で壊すような告白もした。
#291soberだと言っていたのは嘘だった。
#292drugとalcoholを断ってまだ数日しかたっていない、と涙ながらに語った。
#293だからTysonの後半生を単純なredemption storyにはできない。
#294彼は「問題をすべて解決したから」面白い人間になったわけじゃない。
#295まだ解決していないことまで話すようになった。
#296映画。
#297interview。
#298回想録。
#299一人芝居。
#300そしてpodcast「Hotboxin' with Mike Tyson」。
#301子どものころ、Tysonは高い声とlispをからかわれていた。
#302何十年もたつと、人々はその一度聞けば忘れない声で、彼が何時間も話すのを聴くようになった。
#303最初のcareerを作ったのは拳だった。
#304二つ目のcareerを支えたのは、声だった。
#305Tysonはcannabis関連事業などにも名前を広げ、celebrity brandとして活動するようになった。
#306それでもboxingは何度も戻ってきた。
#3072020年。
#30854歳でRoy Jones Jr.とのexhibition。
#309そして2024年。
#310さらに奇妙な相手と戦った。
#311Jake Paul。
#312internet celebrityからboxerになった、31歳年下の男だった。
#313Paulは27歳。
#314Tysonは58歳。
#3151980年代のような速さで動けるはずもなく、Tysonはunanimous decisionで敗れた。
#316それでも会場には7万人を超える観客が入った。
#317Netflixを通じて世界中の巨大なaudienceも見た。
#318商品がまた変わっていた。
#31920歳のTysonが売っていたものは、
#320「今度は何分で倒す?」
#32158歳のTysonが売っていたものは、
#322「あのMike Tysonが本当にもう一度リングに立つの?」
#323だった。
#324誰も彼がまだ世界最高のheavyweightだと信じる必要はなかった。
#325かつてMike Tysonだった。
#326それだけで見る理由になった。
#327そして2026年。
#328Tysonは60歳になった。
#32960歳になっても、Tysonは往年のスター同士によるring spectacleの可能性を完全には捨てていない。
#330その一方で、別の形でもboxingに関わり始めた。
#331「Mike Tyson Invitational」。
#332若いamateur boxerたちに試合の経験と露出を与え、trainerやboxing関係者の目に触れる場所を作るイベントだ。
#3332026年にLas Vegasで始まり、その後も大会は続いた。
#334Tyson自身、この活動を自分のlegacyと結びつけて語っている。
#335そこで、ずっと昔の小さな場面に戻ってみる。
#336Tryon School for Boys。
#337顔にあざを作って帰ってくる少年たちを見て、不思議に思った子どもがいた。
#338自分もやりたい。
#339そう思ってBobby Stewartを探した。
#340Stewartは彼を試した。
#341教えた。
#342そして才能の大きさに気づくと、自分のところに囲い込まなかった。
#343もっと遠くまで連れていける人間のところへ送った。
#344その選択がMike Tysonの人生を変えた。
#345何十年もたった今、その少年は世界ヘビー級王者ではない。
#346世界で最も恐れられた男でもない。
#347有罪判決を受けた過去が消えたわけでもない。
#348暴力も、傷つけた人々も、壊れた関係も、後年の人気によって書き換えられるものではない。
#349最後にすべてが赦される物語ではない。
#350ただ、変わったことはある。
#351かつてMike Tysonは、誰かに見つけてもらえる場所へ連れていってもらった。
#35260歳になったMike Tysonは今、別の若いboxerが誰かに見つけてもらえるリングを作っている。
#353も、タイソンより何十年も前にBrooklynの厳しい環境とreform schoolを経験し、と出会って当時史上最年少の世界ヘビー級王者になった。のちにタイソンがその最年少記録を更新するけれど、同じtrainerに育てられた二人のその後は大きく違っていく。D'Amatoが最初に育てた「最年少王者」Pattersonは、なぜ二人目のタイソンとはまったく違う道を歩んだのか?