マヨルカ島から世界へ進み、グランドスラム22勝と全仏オープン14勝を残したスペインのテニス選手
変え続けたナダルは、なぜ最後に「やめる」ことを選べたのか
#1後に「どんな状況でも折れない選手」の象徴になるラファエル・ナダルにも、コートに立つのが嫌な日があった。
#2特に、叔父のトニ・ナダルと二人きりで練習するときだった。
#3マヨルカ島のマナコルで、トニは甥だからといって甘く扱わなかった。
#4むしろ逆だった。
#5ボールを拾わせる。
#6コートを整備させる。
#7必要なものを忘れれば、自分のミスが生んだ不便をそのまま引き受けさせる。
#8ラファが泣いて家に帰ることもあった。
#9のちにセンターコートでロジャー・フェデラーと何時間も戦う男からは、少し想像しにくい。
#10でも幼いラファは、最初から恐怖を感じない子どもだったわけではない。
#11そして彼には、テニス以外の道もあった。
#12サッカーだ。
#13叔父のミゲル・アンヘル・ナダルはFCバルセロナやスペイン代表でプレーしたプロ選手だった。
#14ラファ自身もサッカーがうまかった。
#15テニスでも同世代の大会で勝ち、サッカーでも才能を見せる。
#16両方を続けていた。
#17しかし、学校生活まで含めれば、いつまでも二つを本格的に続けることは難しい。
#18両親のセバスティアン・ナダルとアナ・マリア・パレラは、やがて息子に選択を求めた。
#19サッカーか。
#20テニスか。
#21よく語られる物語では、トニがラファにテニスを選ばせたことになっている。
#22実際は、そこまで単純ではない。
#23トニがテニスの才能を早くから見抜き、強い影響を与えたことは確かだ。
#24ただし、家族の判断があり、最後にはラファ自身の意思もあった。
#25彼が選んだのはテニスだった。
#26そのほうが自分に合っていると感じていた。
#27その選択が、やがて22度のグランドスラム優勝につながるなんて、そのときの少年が知るはずもない。
#28その瞬間に起きていたのは、もっと小さなことだった。
#29好きな二つのもののうち、一つを手放した。
#30ナダルには有名な話がある。
#31もともとは右利きだったが、トニが左利きのほうがテニスで有利だと考え、意図的に左で打たせた。
#32そういう話だ。
#33後のナダルを知っていれば、説得力はある。
#34彼の左利きのフォアハンドは強烈なトップスピンを生み、右利きの選手たちを何度も苦しめた。
#35けれど、ナダル本人の説明は違う。
#36子どもの頃の彼は、フォアハンドもバックハンドも両手で打っていた。
#37まだ体が小さく、両手でラケットを扱うのが自然だった。
#38やがてトニは、プロを目指すならフォアハンドまで両手で打ち続けるわけにはいかないと言った。
#39片手を離す必要があった。
#40そのとき、自然に残ったのが左手だった。
#41ナダルは文字を書くときは右手を使う。
#42日常生活でも右手を使うことが多い。
#43一方、サッカーでは左足が得意だった。
#44つまり、単純に「右利きの少年を戦略的に左利きへ改造した」という話ではない。
#45ただ、このエピソードには、後のナダルらしさが少し見える。
#46いままで機能していたやり方でも、次の段階へ進むために捨てなければならないことがある。
#47両手のフォアハンドをやめる。
#48その後も、ナダルは何度もそういう選択をする。
#49トニがラファに教えようとしていたのは、技術だけではなかった。
#50ジュニア大会で結果を出しても、その勝利に長く酔わせようとはしなかった。
#51若い頃に注目されながら、そのまま消えていった選手はいくらでもいる。
#52だから翌日になれば、また練習だった。
#53勝ったから特別扱いされる。
#54才能があるから楽をしていい。
#55そういう考えを持たせたくなかった。
#56もちろん、トニの方法をすべて美談にすることはできない。
#57ナダル自身も後に、その厳しさが自分の不安の一部に影響した可能性を認めている。
#58厳しく育てれば強い選手になる、という単純な因果関係ではない。
#59それでも、ラファが幼い頃から覚えたことはあった。
#60不快な状況になったからといって、そこで物事が終わるわけではない。
#61悪いポイントのあとには次のポイントが来る。
#62勝った大会のあとには次の練習が来る。
#63怖くても、またコートに立つ。
#64そして14歳頃、また大きな選択がやってきた。
#65より大きな育成環境を求めてバルセロナへ移る案があった。
#66しかし家族とナダルは、マヨルカに残る道を選んだ。
#67世界的な選手になるには必ず故郷を出なければならない。
#68その考えには従わなかった。
#69当時は、マナコルに残った少年が世界へ出ていこうとしていた。
#70ずっと後には、その流れが逆になる。
#71世界中の若い選手たちが、マナコルへやって来ることになるからだ。
#722004年、マイアミ。
#7317歳のナダルは世界1位のロジャー・フェデラーと対戦した。
#74フェデラーはすでに男子テニスの中心へ向かっていた。
#75ナダルのランキングは34位。
#76結果は、ナダルのストレート勝ちだった。
#776-3、6-3。
#78この最初の対戦を知ると、二人のライバル関係を「若いナダルが長年フェデラーに負け続け、やっと追いついた物語」とすることはできない。
#79ナダルは、早い段階からフェデラーにとって厄介な相手だった。
#80特にクレーではそうだった。
#81ナダルの左のフォアハンドから生まれる強烈なトップスピンは高く跳ね、フェデラーの片手バックハンドへ向かう。
#82もちろん、その一つだけで二人の試合を説明できるわけではない。
#83ただ、フェデラーにとって嫌な組み合わせだったことは確かだった。
#842005年の全仏オープン。
#8519歳の誕生日を迎えたナダルは準決勝でフェデラーを破り、そのまま初優勝した。
#862006年の決勝でも勝った。
#872007年も勝った。
#88そして2008年の全仏決勝。
#896-1、6-3、6-0。
#90パリの赤土では、フェデラーのほうが答えを見つけられないように見えた。
#91でもロンドンへ行けば、話は変わる。
#922006年。
#93ナダルは初めてウィンブルドン決勝に進んだ。
#94相手はフェデラー。
#95第1セットは0-6だった。
#96完全に持っていかれた。
#97そこから試合にはしたが、優勝したのはフェデラーだった。
#98芝では、まだ差があるように見えた。
#991年後。
#100ナダルはまた決勝まで来た。
#101またフェデラー。
#102今回は5セットになった。
#103ナダルにもチャンスがあった。
#104最終セットでフェデラーのサービスを崩せそうな場面も作った。
#105しかし取り切れない。
#106最後はフェデラーが勝ち、ウィンブルドン5連覇を達成した。
#107ナダルは二年続けて同じ場所で負けた。
#108ただ、2006年と2007年は同じ敗戦ではない。
#109最初の年は、芝でフェデラーのほうが明確に上に見えた。
#110翌年は、本当に手が届きそうだった。
#111そこで必要になったのが、我慢だけではない変化だった。
#112クレーで成功したままのテニスを、そのまま芝へ持ち込むわけにはいかない。
#113もっとベースラインの近くでプレーする。
#114サーブを強くする。
#115早めに攻撃する。
#116ポイントを短くする。
#117長いラリーで相手を消耗させることを得意としていた選手が、長いラリーをしなくても勝てる方法を覚える必要があった。
#118ナダルは、自分が強かったから勝ったのではない。
#119強かった自分の形を変え始めていた。
#1202008年7月6日。
#121ウィンブルドン決勝。
#122相手はまたフェデラー。
#123フェデラーは大会5連覇中。
#124芝では65連勝中だった。
#125数週間前、ナダルは全仏決勝で彼を6-1、6-3、6-0で倒している。
#126でも、あれはパリだった。
#127ここはフェデラーの庭だった。
#128ナダルが第1セットを6-4で取った。
#129第2セットも6-4。
#130あと1セット。
#131しかしフェデラーが戻ってきた。
#132第3セットをタイブレークで取る。
#133第4セットでもナダルにはチャンピオンシップポイントが来た。
#134フェデラーがしのぐ。
#135また来る。
#136またしのぐ。
#137最後はフェデラーがそのセットもタイブレークで取った。
#1382セットオール。
#1391年前、ナダルは5セット目で負けている。
#140今度は2セット先に取っていたのに、また同じ場所まで引き戻された。
#141そこへ雨が来た。
#142試合が止まる。
#143選手たちは中へ戻った。
#144トニは心配していた。
#145前年の敗戦。
#146消えたチャンピオンシップポイント。
#147長い中断。
#148ラファが頭の中で余計なことを考え始めてもおかしくない。
#149でも、そのとき二人の関係は昔とは逆になっていた。
#150トニとの二人きりの練習を怖がっていた少年は、もういない。
#151ナダルは、自分は勝てると思っていた。
#152もし負けるとしても、それは自分が崩れるからではなく、フェデラーがさらにいいプレーをしたときだ。
#153今度はトニがラファを励ますのではなかった。
#154ラファのほうが、トニに大丈夫だと伝える側になっていた。
#155試合が再開した。
#156空はどんどん暗くなった。
#157当時のセンターコートには、現在のような屋根も十分な照明もなかった。
#1585セット目、7-7。
#159ナダルがついにフェデラーのサービスを破る。
#1608-7。
#161自分のサービスをキープすれば優勝。
#162最初のポイントを落とす。
#163そこでナダルは、その日の自分としては意外な選択をした。
#164サーブ・アンド・ボレー。
#165ネットへ出る。
#166ポイントを取る。
#167またチャンピオンシップポイントが来る。
#168フェデラーが消す。
#169これでナダルは三度、タイトルまであと1ポイントのところから戻されていた。
#170そして4度目。
#171フェデラーのフォアハンドがネットにかかった。
#172終わった。
#1736-4、6-4、6-7、6-7、9-7。
#174プレー時間4時間48分。
#175フェデラーのウィンブルドン5連覇は終わった。
#176芝65連勝も終わった。
#177ナダルはビョルン・ボルグ以来となる、同じ年の全仏オープンとウィンブルドン制覇を成し遂げた。
#178その数週間後、初めて世界1位になった。
#179この試合を「ナダルの精神力がフェデラーを上回った」とだけ説明するのは簡単だ。
#180でも、それでは2006年と2007年が消えてしまう。
#181一度負けた。
#182また負けた。
#183その間に芝で勝つためのプレーへ、自分のテニスを変えた。
#1842008年に勝ったナダルは、ただ同じ自分のまま三度目の挑戦をしたわけではなかった。
#185少し違う選手になって戻ってきた。
#186そしてこれから先、その力はフェデラー以上に必要になる。
#187相手が自分の身体になるからだ。
#188時間を2005年へ戻す。
#18919歳。
#190初めて全仏オープンを制した。
#191普通なら、ここから伝説が始まったと書きたくなる。
#192でも、その年に左足の問題が深刻になった。
#193その後、ほとんどキャリア全体について回ることになる慢性的な問題だった。
#194状態が悪化したときには、プロテニスを続けられない可能性まで考えなければならなかった。
#195テニスが無理ならゴルフへ進めるだろうか。
#196そんな未来まで想像した。
#197世界が「19歳の新しいグランドスラム王者」を見ていたとき、本人と家族は「この競技そのものを続けられないかもしれない」と考えていた。
#198これを知ると、ナダルの故障歴の見え方が変わる。
#199健康な身体で長い全盛期を過ごし、晩年だけ故障と戦ったわけではない。
#200最初から身体との交渉があった。
#201特殊なインソール。
#202治療。
#203休養。
#204トレーニングの調整。
#205やがて膝。
#206手首。
#207腹部。
#208股関節。
#209問題は一つではなくなる。
#210そのたびに問いが生まれた。
#211この状態で続けられるか。
#212何を変えればいいか。
#213いったん止まるべきか。
#214別のやり方なら戻れるか。
#2152009年。
#216ナダルは全豪オープンで初優勝した。
#217さらに上へ行く年に見えた。
#218しかし私生活では、両親の別居が大きな衝撃になっていた。
#219同時に膝も悪化した。
#220全仏オープンではロビン・セーデリングに敗れ、大会初黒星を喫した。
#221そして前年王者として迎えるはずだったウィンブルドンを欠場した。
#222「絶対にあきらめない」と呼ばれる選手が、出なかった。
#223それが必要だったからだ。
#2242012年には、ウィンブルドン2回戦でルカシュ・ロソルに敗れたあと、左膝の問題が深刻化した。
#225オリンピックを欠場。
#226全米オープンも欠場。
#227公式戦から離れた期間は222日に及んだ。
#228ナダルは、勇敢な選手だから何月何日に必ず戻る、と身体に命令したわけではなかった。
#229膝が戻れる状態になったら戻る。
#230そして2013年。
#231復帰したナダルは全仏オープンを勝った。
#232全米オープンも勝った。
#233世界1位にも戻った。
#234こういう復帰が何度もあると、すべてを「痛みに勝つ精神力」で説明したくなる。
#235でも実際は違う。
#236プレーをやめた。
#237休んだ。
#238治療した。
#239予定を変えた。
#240大会を捨てた。
#241戻れる形になるまで待った。
#242ナダルの頑固さは、いつも「出場する」という形をしていたわけではない。
#2432015年前後、問題は身体だけではなくなった。
#244試合中の不安。
#245自信の低下。
#246以前なら迷わなかった場面で、ショットを信じきれないことがあった。
#2472016年には手首も痛めた。
#248その頃、カルロス・モヤがコーチングチームに加わった。
#249モヤは突然現れた外部の改革者ではない。
#250同じマヨルカ出身で、かつて世界1位になり、ナダルが若い頃から知っていた先輩だった。
#251後半のナダルに必要だったのは、練習量を増やすことではなかった。
#252むしろ減らすことだった。
#253ただし、目的をはっきりさせて。
#254ベースラインの近くで打つ。
#255サーブを強くする。
#256フォアハンドで先に攻める。
#257ポイントを早く終わらせる。
#258若い頃のナダルには、「相手よりもう1球多く返す」というイメージがあった。
#259でも年齢を重ねた身体に、毎回そのやり方を要求することはできない。
#260ならば、そこまで走らなくても勝てる選手に変わる必要がある。
#2612017年。
#262ナダルは全豪オープン決勝へ戻った。
#263全仏オープンを制した。
#264全米オープンも制した。
#265シーズンを世界1位で終えた。
#266昔の身体ではなくなったからこそ、昔のナダルのままではいられなかった。
#267左足の問題は、消えたことがなかった。
#2682021年、それが再び大きく悪化した。
#269普通の練習ができない日が続いた。
#270ある日はテニスができない。
#271ある日は20分。
#272ある日は45分。
#273その日の足が許すところまで。
#274家族やチームの中でも、選手生活の終わりを現実的に考えるようになった。
#275治療を受けた。
#276松葉杖も使った。
#277そして2022年の全豪オープンへ戻った。
#278少し前まで、本当にまたこの大会に出られるかさえわからなかった。
#279決勝はダニール・メドベージェフ。
#280最初の2セットを失った。
#28135歳。
#282長いブランク。
#283不安定な身体。
#284普通なら、ここで終わってもおかしくない。
#285しかし試合はひっくり返った。
#2865時間を超える戦いの末、ナダルが勝った。
#287グランドスラム21勝目。
#288また復活したように見えた。
#289でも数か月後のパリでは、その身体の現実がさらに極端な形で見えることになる。
#290足は治っていなかった。
#2912022年の全仏オープン。
#292ナダルは試合前に、左足の神経へ麻酔注射を受けていた。
#293故障を治すためではない。
#294痛みを感じなくするためでも、正確には少し違う。
#295足の感覚そのものを消すためだった。
#296大会途中には、これまでのやり方では十分に効かなくなり、医療チームが別の位置から神経をブロックする必要まで出てきた。
#297それでもナダルは勝ち続けた。
#298決勝へ行った。
#299勝った。
#300全仏オープン14勝目。
#301グランドスラム22勝目。
#302そして、それが最後のグランドスラム優勝になった。
#303トロフィーだけを見れば、また身体を乗り越えたように思える。
#304実際は逆だった。
#305麻酔が切れれば、痛みは戻る。
#306大会後には、神経に対するパルス高周波治療まで受けた。
#30722勝目は、故障を解決した証拠ではない。
#308身体との交渉が、どれだけ限界に近づいていたかを示す大会だった。
#309ナダルは長い間、いつも「もう一つの方法」を探してきた。
#310この頃には、その方法自体が大きな代償を伴い始めていた。
#3112023年の全豪オープン。
#312マッケンジー・マクドナルドとの2回戦で、ナダルは左の股関節周辺を痛めた。
#313試合は最後まで続けた。
#314そのあと、長い離脱が始まった。
#315回復は予想よりはるかに遅れた。
#316全仏オープンを欠場。
#317最終的には手術を受けた。
#318約1年後の2024年、ブリスベンで復帰した。
#319ドミニク・ティームに勝った。
#320ジェイソン・クブラーにも勝った。
#321長く見えなくなっていたナダルが戻ったように見えた。
#322しかし次の試合で、また筋肉を痛めた。
#323全豪オープンを断念。
#324再び帰宅した。
#325その後の春は、ほとんど身体の実験だった。
#326バルセロナ。
#327マドリード。
#328ローマ。
#329単に大会で勝とうとしていたのではない。
#330身体が、まだプロテニスという生活に耐えられるのかを確認していた。
#331慎重に動くだけなら、故障を避けられるかもしれない。
#332でも、それでは答えは出ない。
#333本気で走る。
#334本気で打つ。
#335それをやっても身体が持つのか。
#336もう時間は多くなかった。
#3372024年の全仏オープン。
#338多くの人は、これがナダル最後のパリだと思っていた。
#339本人は断言しなかった。
#340最近は身体の感覚が少し良くなっている。
#341テニスを楽しめてもいる。
#342本当に最後だとわからないのに、先に最後と決めたくはなかった。
#343長期離脱でランキングは落ちていた。
#344シードはない。
#3451回戦の相手はアレクサンダー・ズベレフ。
#3463-6、6-7、3-6。
#347敗れた。
#34814度優勝した大会で、初めて1回戦で負けた。
#349それでも、まだ完全には終わらなかった。
#3502か月後、同じローランギャロスの会場へ戻った。
#351今度はパリ五輪。
#352ダブルスではカルロス・アルカラスと組んだ。
#35317歳年下の、スペインの新しいグランドスラム王者。
#354シングルスでは、長年のもう一人のライバル、ノバク・ジョコビッチと対戦して負けた。
#355パリのあと、通常のツアー生活には戻れなかった。
#356そして10月。
#357ナダルは引退を発表した。
#358引退を説明するとき、ナダルは単純に「身体が痛いから」とは言わなかった。
#359最後の2年間、制限なしにプレーできなかった。
#360そこが大きかった。
#361ラケットを振れなくなったわけではない。
#362実際、1か月後には公式戦のシングルスに出る。
#363でも、ナダルがプロ選手だと考える生活を作れなくなっていた。
#364継続して練習する。
#365繰り返し大会に出る。
#366身体を信頼する。
#367シーズンを組み立てる。
#368そこまで含めた競技生活が、もう成立しにくい。
#369約20年間、ナダルは制限が出るたびに新しい問いを作ってきた。
#370靴を変えるか。
#371治療を変えるか。
#372もっと休むか。
#373練習を減らすか。
#374攻撃を早くするか。
#375この大会を諦めるか。
#376もう一度だけ復帰を試すか。
#377でも2024年には、問いそのものが変わっていた。
#378まだ何を変えられるか。
#379ではない。
#380もう変えられないと認められるか。
#381最後の適応は、もしかするとそれだった。
#382最後の大会としてナダルが選んだのは、デビスカップ・ファイナルだった。
#383彼にとって特別な大会だ。
#3842004年、18歳のナダルはスペイン代表として優勝を経験し、プロキャリア初期の大きな喜びの一つを味わった。
#38520年後。
#3862024年11月19日。
#387マラガ。
#388スペイン対オランダ。
#389国歌が流れると、ナダルは泣いた。
#390そしてボティック・ファン・デ・ザンスフルプと戦った。
#3914-6、4-6。
#392負けた。
#393試合後の言葉のほうが印象的だった。
#394もしスペインが勝ち上がり、次のシングルスがあるとしても、自分がキャプテンなら自分を選ばないだろう。
#395そういう趣旨のことを話した。
#396ずっと「もう1ポイント」を求めてきた選手だ。
#397出られるなら出たい。
#398戦えるなら戦いたい。
#399でも、自分がやりたいことと、チームにとって一番いい選択は別だと認めた。
#400カルロス・アルカラスが次のシングルスを勝った。
#401スペインは1勝1敗。
#402ナダルのキャリアは、まだ数時間だけ続いた。
#403最後のダブルス。
#404アルカラスとマルセル・グラノリェルスが戦う。
#405ナダルはベンチで見ていた。
#406スペインが負けた。
#407その瞬間、ナダルの選手生活も終わった。
#408自分の最後のショットで終わったわけではない。
#409他の選手がプレーしているのを見ながら終わった。
#410デビスカップの最初のシングルスも敗戦。
#411最後のシングルスも敗戦。
#412その間は29勝2敗。
#413映画のように完璧な引退ではなかった。
#414ナダル自身、そういう終わりは現実にはなかなかないとわかっていた。
#415そして最後には、自分にはもう出し残したものがないと受け止めることができた。
#416だから離れられた。
#417でも、ラファエル・ナダルの話をマラガで終えると、少し足りない。
#418プロ選手としてのナダルは終わった。
#419ただ、彼の周りにあるテニスは続いている。
#4202026年9月。
#421場所はまたマヨルカ。
#422またマナコル。
#423ラファ・ナダル・アカデミーでは、ATPチャレンジャー大会のラファ・ナダル・オープンが行われている。
#424若いプロ選手たちがランキングポイントを求め、さらに上のツアーへ進もうとしている。
#425アカデミーで育った選手もいる。
#426そして、ナダルがいる。
#427コートの中ではない。
#428観客席だ。
#429少年時代のナダルは、マナコルで練習しながら、どうすれば世界へ出られるのかを考えていた。
#43010代の頃には、より大きな環境を求めてマヨルカを離れる案もあった。
#431でも残った。
#432そして世界王者になったあと、今度は流れを逆向きにする場所を作った。
#433アカデミーがマナコルに開いたのは2016年。
#434ナダルがまだ現役だった頃だ。
#435テニスだけではなく学校もある。
#436その場所では、プロへの足がかりになるチャレンジャー大会まで行われるようになった。
#437一方、ラファ・ナダル財団はトップ選手を目指す子どもだけではなく、スポーツと教育を通じて別の未来を必要とする子どもたちにも活動を広げている。
#438つまり、引退してから急に「次の世代のために何かしよう」と考えたわけではない。
#439自分がまだコートに立っているうちから、自分がいなくても動き続ける場所を作っていた。
#440トニと二人きりの練習を怖がっていた少年。
#441同じウィンブルドン決勝で二度負け、自分のテニスを変えて三度目にフェデラーを倒した選手。
#44219歳から足の問題と付き合い続けた選手。
#443最後には、また別の解決策を探すのではなく、もう変えられないものを認めた人。
#4442026年のナダルは、プロテニスへ戻る方法を探していない。
#445その章は終わったと受け入れている。
#446代わりに、センターコートでは別の選手たちが戦っている。
#447昔は、ナダルがマナコルから世界へ出ていこうとしていた。
#448今は、世界へ出ていこうとする選手たちがマナコルへ来る。
#449そしてナダルは、もう自分がラケットを持たなくても、その試合を見ていられる。
#4502008年のウィンブルドンでナダルがの芝での支配を終わらせたあとも、二人の関係は変わり続けた。14年後、フェデラーがプロ最後の試合に選んだダブルスで隣に立っていたのもナダルだった。そして試合後、かつて最大のライバルだった二人は並んで涙を流した。互いの前に立ちはだかっていた二人は、どうして最後には相手の引退をいちばん近くで見届ける関係になったのだろう?