ハイチ革命の指導者で、サン=ドマングの元総督
ナポレオンはトゥーサンを捕らえた。それでも革命は終わらなかった
#11802年6月、トゥーサン・ルーヴェルチュールはフランス軍の将軍に会いに行った。ほんの1年前まで、彼はサン=ドマングでもっとも強い権力を握る人物だった。軍を持ち、島の大部分を治め、自らの憲法まで作っていた。
#2ところが、今は立場がまるで違った。ナポレオン・ボナパルトが大西洋の向こうから大規模な遠征軍を送り込み、トゥーサンの有力な部下たちも次々とフランスに降伏していたからだ。
#3トゥーサンもついに戦いをやめた。
#4フランス側は安全を約束し、彼は自分の領地へ戻った。
#5そこへジャン=バティスト・ブリュネ将軍から会談の誘いが来る。トゥーサンが応じると、フランス軍はその場で彼を逮捕した。
#6そして船に乗せ、フランスへ送ってしまった。
#7ナポレオンがもっとも危険視していた男を、サン=ドマングから消すことには成功したわけだ。
#8これで革命も終わるように見えた。
#9でも、終わらなかった。
#10トゥーサンが消えたあと、戦争はもっと急進的なものに変わっていく。そして1年半もたたないうちに、フランスはトゥーサン一人ではなく、植民地そのものを失うことになる。
#11いったい何が起きたのか。
#12サン=ドマングは、当時の世界でもっとも富を生み出す植民地の一つだった。砂糖とコーヒーが莫大な利益をもたらしていた。
#13その富を支えていたのは、数十万人の奴隷だった。プランテーションの労働は過酷で、人が次々に失われるため、アフリカから新たな奴隷が運び込まれ続けていた。
#14だから、サン=ドマングが豊かだったことと、巨大な奴隷反乱が起きたことは別々の話じゃない。
#15むしろ、同じ仕組みから生まれた。
#16途方もない富を生む制度が、同時に途方もない数の人間を強制労働に押し込んでいた。
#171791年8月、北部平原でプランテーションが燃え始めた。奴隷たちは武器を取り、フランス革命の影響で植民地の権力関係まで揺れるなか、反乱は一気に広がっていった。
#18ただ、この時点でトゥーサンは革命のトップではなかった。
#19ジャン=フランソワやビアスーのような指導者がすでに前に出ていた。
#20しかもトゥーサンは若くない。奴隷として生まれたものの、革命よりずっと前に自由を得ていて、ある程度の財産も持っていた。奴隷労働から利益を得ていた形跡まで残っている。
#21最初から一直線に「解放の英雄」へ向かっていた人物ではなかった。
#22革命が先に始まった。
#23トゥーサンは、その中へあとから入っていった。
#24トゥーサンが最初に組んだヨーロッパ勢力は、フランスではなかった。
#25スペインだった。
#26当時、イスパニョーラ島の東側はスペイン領だった。スペインと革命期のフランスが戦争に入ると、スペイン側はサン=ドマングの黒人反乱軍を利用しようとした。
#27武器を渡し、軍の階級も認めた。
#28トゥーサンもスペイン側に入り、フランス軍と戦った。
#29ところが、状況が変わる。
#30サン=ドマングのフランス共和派が奴隷解放を進め、1794年にはフランス国民公会が植民地の奴隷制廃止を決めた。
#31トゥーサンはスペインを離れた。
#32そして、それまで戦っていたフランス共和国側へ移った。
#33そこから一気に力を伸ばしていく。軍をまとめて動かすのもうまかったが、それだけじゃない。状況が変わったとき、誰と組むべきかを読む力もあった。
#34フランスの敵だった男が、フランス軍の将軍になる。
#35スペインと戦い、イギリスとも戦う。
#36やがてフランスは、あとで排除しようとするその人物に、どんどん頼るようになっていった。
#371798年ごろには、イギリス軍もサン=ドマングから撤退していった。
#38ここからは戦争に勝つだけでは足りない。壊れた社会をどう動かすか、という問題が出てくる。
#39軍隊には金がいる。政府にも収入が必要だ。
#40サン=ドマングが金を稼ぐ方法は、相変わらず砂糖とコーヒーだった。
#41だからトゥーサンは、つい最近まで戦っていたイギリスと交渉した。アメリカとも直接取引するようになる。
#42フランス領の統治者なのに、パリの指示だけを待っているわけではない。
#43それでもトゥーサンは独立を宣言しなかった。
#44彼が作ろうとしていたのは、まだフランスのいない国ではなかった。
#45フランスにつながっていながら、フランスには簡単に支配できないサン=ドマング。
#46そんな体制を作ろうとしていた。
#47トゥーサンは奴隷制の復活を認めなかった。
#48でも、奴隷制をなくしただけで経済の仕組みまで消えるわけじゃない。
#49砂糖やコーヒーを輸出しなければ、政府も軍も維持できなかった。
#50すると、自由になった人たちから見れば別の疑問が出てくる。
#51自由になったのに、なぜまた同じ農園で働かなければならないのか。
#52自分の土地で暮らしたい人も多かった。
#53トゥーサンのやり方は強制を伴った。労働者はもう法的な奴隷ではない。人の所有物でもない。
#54ただし、農園を自由に離れることも難しかった。
#55軍や行政が人々をプランテーション労働に戻し、生産を維持しようとしたからだ。
#56ここにトゥーサン政権の大きな矛盾があった。
#57人間をもう一度所有物にはしない。
#58でも、自由になった人が働く場所を完全に選べるようにもしていない。
#591801年、北部で反乱が起きた。そこにはトゥーサンと近い立場にいた指揮官モイーズも関わっていた。
#60トゥーサンは反乱を鎮圧した。
#61モイーズは処刑された。
#62奴隷反乱の中から台頭した指導者が、今度は解放された黒人たちの抵抗を軍で押さえていた。
#63奴隷制をなくすことと、そのあとにどんな社会を作るかは別の問題だった。
#641801年、トゥーサンはイスパニョーラ島の東部にも支配を広げた。
#65そして独自の憲法を作った。
#66そこでは奴隷制の永久廃止が宣言された。一方で、トゥーサン自身は終身総督になり、後継者にまで大きな影響を持つことになった。
#67しかも、その憲法はサン=ドマングがまだフランス帝国の一部だとしていた。
#68形の上ではフランス領。
#69なのに実際には、トゥーサンが軍を持ち、トゥーサンが憲法を作り、トゥーサンが外国と交渉している。
#70パリから見れば、当然こうなる。
#71これは本当にまだフランスの植民地なのか。
#72トゥーサンがもっとも成功した瞬間、その成功そのものがナポレオンには危険に見え始めた。
#731802年初め、フランス艦隊がサン=ドマングに姿を現した。
#74ナポレオンは義弟のシャルル・ルクレールに大規模な遠征軍を任せていた。
#75この遠征を最初から「サン=ドマングの人々を全員もう一度奴隷にするための戦争」とだけ説明すると、少し単純すぎる。
#76まずはっきりしていたのは、フランスの直接支配を取り戻し、トゥーサンの独自権力を壊すことだった。
#77戦闘は激しかった。アンリ・クリストフはカプ=フランセを簡単には渡さず、撤退するとき町を焼いた。ジャン=ジャック・デサリーヌはクレート=ア=ピエロでフランス軍の包囲に激しく抵抗した。
#78それでも遠征軍は強かった。
#79ルクレールはトゥーサンの部下たちに条件を出した。
#80降伏すれば階級を認める。 自由も守る。
#81クリストフが降伏した。
#82デサリーヌも続いた。
#83トゥーサンは孤立していく。
#84そして1802年5月、彼も戦いをやめることを受け入れた。
#85フランスが勝ったように見えた。
#86トゥーサンの軍は崩れ、有力な部下たちはフランス側に入った。トゥーサン本人も自分の領地へ戻った。
#87その約1か月後、逮捕された。
#88大西洋を渡ってフランスへ送られ、東部の山岳要塞ジュー要塞に閉じ込められた。
#89ナポレオンが望んでいた難しい仕事は終わったように見える。サン=ドマングでもっとも力のあった男が、何千キロも離れた独房にいたからだ。
#90ただ、フランスが取り除いたのはトゥーサンだった。
#91革命ではなかった。
#92トゥーサンが消えても、武装抵抗は続いた。
#93農民、マルーン、独自に戦う反乱指導者たちはまだ武器を置いていなかった。
#94しかも話はきれいじゃない。
#95トゥーサンの旧部下の一部は、最初はフランス側に立って、そうした反乱を取り締まっていた。
#96デサリーヌもその一人だった。
#97つまり、トゥーサンが捕まった瞬間に忠実な後継者がそのまま独立戦争を引き継いだ、という話ではない。
#98ところが数か月後、状況を変える知らせがグアドループから届いた。
#99そこではナポレオン政府が送った軍が抵抗を押さえ込み、奴隷制が復活する方向へ進んでいた。
#100サン=ドマングの人々からすれば、当然不安になる。
#101次は自分たちじゃないのか。
#102ルクレールは自由を守ると約束していた。でもフランス政府は、別の植民地では反対のことをしている。
#103しかもトゥーサンはどうなったか。
#104降伏後の安全を約束されたのに、結局逮捕され、フランスへ送られてしまった。
#105武装解除と弾圧も強くなっていく。
#106すると戦争の意味が変わった。
#107トゥーサンをもう一度権力の座に戻すかどうかではない。
#108また奴隷にされるのか。
#109その恐れのほうが大きくなった。
#1101802年秋、デサリーヌがフランスから離反した。
#111クリストフも続いた。
#112さらにアレクサンドル・ペティオンも加わった。
#113少し前まで、トゥーサンとデサリーヌはペティオンが属する勢力と内戦をしていた。
#114自然な仲間なんかじゃない。
#115むしろ敵だった。
#116それでも同じ側に立った。
#117フランスの政策が、それまでの対立より大きな共通の脅威を作ったからだ。
#118そしてフランス軍には、もう一つの敵がいた。
#119黄熱病。
#120ヨーロッパから来た兵士たちが次々に倒れ、ルクレール自身も1802年11月に病死した。
#121後任のロシャンボーのもとでは戦争がさらに残酷になり、1803年にはイギリスとフランスの戦争まで再開する。
#122海ではイギリス海軍が圧力をかける。
#123フランスは同時にいくつもの相手と戦うことになった。
#124武装反乱。 黄熱病。 そして海上のイギリス。
#125トゥーサンを屈服させた遠征軍が、今度は自分たちのほうから崩れ始めた。
#126ジュー要塞の冬は、サン=ドマングとはまるで違う世界だった。
#127トゥーサンは獄中で自分を弁護する文書を書き、処遇の改善を求めた。
#128でも帰ることはできなかった。
#1291803年4月7日、トゥーサン・ルーヴェルチュールはジュー要塞で死んだ。
#130独立したハイチを見ることはなかった。
#131独立宣言も、フランス軍の最後の敗北も知らないままだった。
#132それでも大西洋の向こうでは、トゥーサン抜きで戦争が続いていた。
#1331803年11月18日、ヴェルティエールの戦いが起きた。
#134デサリーヌが率いる軍と、ロシャンボーのフランス軍がぶつかった。
#135そこにはトゥーサンの下で戦った者がいた。 トゥーサンと戦った者もいた。 一度はフランス側に入った者もいた。
#136今はフランスを追い出す、という一つの目的で戦っていた。
#137フランス軍は敗れ、撤退することになった。
#138ナポレオンはトゥーサンを排除することには成功していた。
#139でも、その成功で一つの事実がはっきりした。
#140トゥーサンは革命そのものではなかった。
#141革命は彼が最大の指導者になる前からあった。彼が降伏したあとも続いた。彼の将軍たちが一時フランス側に入っていた間でさえ、別の人々は戦い続けていた。
#142そして奴隷制が戻るかもしれないという恐れが、昨日まで敵だった勢力まで同じ側に押しやった。
#143一人の指導者を捕まえることはできる。
#144でも、武器を持ち、すでに自由な人間として生きた社会全体を元に戻すのは、まったく別の話だった。
#1451804年1月1日、ゴナイーヴに革命軍の指導者たちが集まった。
#146デサリーヌはフランスからの独立を宣言した。
#147新しい国の名前はハイチだった。
#148ただ、これを「トゥーサンの計画がそのまま完成した」と考えると、大事な違いを見落とす。
#149トゥーサンの1801年憲法では、サン=ドマングはまだフランス帝国の一部だった。
#150彼が目指していたのは、こんな形に近い。
#151奴隷制はない。でもフランスとはつながっているサン=ドマング。
#152ところがナポレオンの遠征を経験した人々は、もっと先の結論に進んだ。
#153自由がフランスの約束にかかっているなら、その約束はまた変わるかもしれない。
#154だから1804年の答えは違った。
#155フランスのいないハイチ。
#156トゥーサンはそれを見ることができなかった。
#157彼自身はナポレオンの遠征軍との最後の対決に敗れ、囚人として死んだ。
#158それでも彼が敗れたあと、革命はトゥーサン本人が生前に進もうとしていた場所より、さらに先へ行った。
#159フランスがトゥーサンをジュー要塞へ送った理由はわかりやすい。
#160サン=ドマングから切り離すためだ。
#161軍からも、仲間からも、彼の言葉を聞く人々からも離す。
#162トゥーサンはそこで死んだ。
#163ところが、時間がたつと要塞の意味は逆転した。
#164彼の独房は公開され、人々がトゥーサンを記憶するために訪れる場所になった。死から220年後の2023年には、フランス大統領もジュー要塞を訪れ、トゥーサンと奴隷制廃止の歴史を記念した。
#165かつてフランスは、一人の男を大西洋の向こうの要塞に閉じ込めれば、彼がもたらす危険も消えると考えた。
#166男を閉じ込めることには成功した。
#167でも、そのときにはもう、
#168革命は独房に入るほど小さくなかった。
#1691803年、はもう一つ大きな決断をした。フランスが持っていた広大なルイジアナ領をアメリカへ売ったのだ。サン=ドマング遠征の失敗と、大西洋世界でのフランスの構想が崩れていったことは、その判断の背景の一つだった。カリブ海の奴隷革命がどうして北アメリカの地図まで変えることになったのか。それはまた別の話になる。